知ってるつもりの祭り談義
へんぽらいの祭り談義2008.10.10投稿より転載、加筆
10月1日から祭りの準備が始まりました。
午後7時前に区民館を開け、子供らの来るのを待ちます。
小学生のお囃子の練習が午後8時まで。それが終わると中学生以上の練習が午後9時まで。生意気盛りの子供たちに振り回されながら、これが月半ばまで続きます。
成人囃子方メンバーに変動はなかなか無いから、おぼえるための練習ではなく磨きをかけるための練習なのですが、なかなかメンバーが揃いません。
足りないところに入って補助するのですが、習うべき人間より現役を退いた人間の方が練習量が多いってのは、なんともおかしな話です。
青年や囃子方が来ても来なくても、区民館の鍵を預かっている以上毎日出かけ、戸締まりをするまで詰めています。区民館が出来て30年余、祭り準備が始まるとこんな生活。
準備から片づけ、囃子方から諸役、資料作りから会計報告まで三十数年間で大体の事は経験したつもりですが、見えないところで起きている事はまるっきり判らないのが実状です。
お祭りが終わると、酒席などで祭り談義が盛んに交わされますが、立場が違えば見えるものがかなり違う事を思い知らされます。
群盲、象をなでるがごとしですね。
= 北斎漫画より =
手探りで象はこんな物だと口にするのは、間違いでは無いけれどそれは象の一部でしか無い。
触れる物が違えば、それぞれにまったく違った感想となります。
大きな物の全体像を捉えていないから、ちぐはぐでわけのわからないものに映るわけです。
祭りも役職などその人の居るポジションで、見えるものが違います。
また、すべてのポジションを経験するには、年月がかかるもの。
わずかな経験で「祭りはこんなもの」などと多寡をくくらずに、祭りがもっともっと大きいものだという事は、ぜひ知っておいて欲しいものです。
がむしゃらに祭りに没頭できるのもせいぜい5年から10年。家族を持ち、仕事に追われれば自由も効かなくなります。
無理ながんばりは続かないものだから、長い目で無理のない、先を見据えた運営が必要です。
醒めたからと言って、祭りを投げ出すわけにも行きません。
最低限、仕事を分担出来る頭数を維持する事が一つの課題です。
祭りが区内老若男女多くの楽しみであるうちは、祭りは続いてゆくものだけれど、誰かにそっぽを向かれるようになったら赤信号です。
常に目配りは必要です。
==参考リンク==