女子囃子方山車に乗る

== 平成19年10月12・13日の「へんぽらいの祭り談義」に書いたブログに、少し加筆し転載したものです。 ==


数年前のニュースで、あの伝統有る京都の祇園祭でも山鉾への女性参加が容認されたと言う記事を読み感慨深い物がありました。

私の町内で女性の囃子を山車に乗せたのはかれこれ20年前になりますが、時の流れは歴史有る祭りにもようやく変化を起こさせたのでしょうか。
富士宮では屋台に芸者衆は乗せたけれど、山車に関しては女人禁制という傾向が昔からありました。今でこそ女性も囃子方として山車に乗る事も多いですが、最初は女性を乗せるについては抵抗も多く、それを変えるには大きな衝突が起こることは目に見えていました。

20年ほど前(昭和末期)のわが町内の状況と言えば、現役青年がわずかに5名。勧誘に歩いても居留守を使われるなどことごとく不発に終わるのは、昔青年だった青年後見の無頼のごとき悪行の数々が嫌われたからに他なりません。
そんな状況なのに、頼み込んでやっと出て貰った娘さんを後見が朝まで連れ回すという事件があってからは、年頃の娘さんの参加はお願いできなくなりました。
青年の5名というのも、どん底の青年3名の頃中学生だった2名が、高校を卒業して加わっただけ。事態は変わっていたわけではありません。

昭和57年 湧玉宮本山車復元

昭和57年に屋台を元の山車に復元したのも、青年主体の運営から区主体に切り替わる前でしたから手不足に拍車をかけ、かなりの重荷になっており、現役青年には明るい未来など何も見えませんでした。

そんなところに囃子をやりたいという女の子が現れたのです。
以前から囃子は希望が有れば誰にでも教えていました。先輩諸氏からは教えることには面と向かって文句は言われませんでしたが、女は山車には乗れないからと何度も釘を刺されました。

2年目か3年目には何とか囃子も物になり、その熱心さになんとか乗せてやりたいと思うようになりました。

思えばあれは小心者一世一代の叛乱であったかも知れません。

神社の神主さんに相談すると、
「神事に於いて女人禁制の場所は厳としてあるけれど、神楽や舞には女性も加わっている。神様を祀る場所と囃子の場所をしっかりと区切るなら女性が囃子で乗っても良いのでは。」
というご意見をいただきました。

区の顧問でいらっしゃったお隣の先生には話をしましたが、「乗せるのか」と一言言っただけで了解していただきました。戦前の祭りで青年長を経験している方ですので、それがどれだけ重いことかは十分承知した上でのことです。

後見とトラブルになることは、こちらも承知の上です。
少ない青年で結束し覚悟を決め、いよいよその日を迎えました。意を決し、初めて女子を山車に乗せたその夜。いやが上にも高まる緊張とは裏腹に、打ち上げまでは不思議なほど和気藹々と順調に進みました。
やがて散会となり、年寄り、後見と参加者を皆送り出して緊張の糸がほっと緩んだその時でした。
「何だとこの小僧!」

と言う怒声が会所の外に響き渡りました。

騒ぎが起きたら女の子は裏口から逃がし、近くに用意した車に匿う。
とにかくそれだけは決めてありました。

玄関から走り出ると、梃子棒を振り上げた後見が他の後見に羽交い締めにされ、なだめられているところ。後ろ手に戸を閉め、ここは通すまいと身構えると「この野郎!仁 王立ちなんかしやがって」との怒声が飛んできましたが、暴れた後見は引きずられ遠ざかっていきました。梃子棒を振るわれた青年に怪我を聞くと、 かすったぐらいで済んだとのこと。

騒ぎを聞きつけて顧問がやって来ました。見れば祭り衣裳のままです。
こんな事態が起こることを見越して家で待機されていたようです。
「先生、俺は悔しくてならない」
先ほどの後見に梃子棒を手渡した後見が言いました。
他所の町内の人間に宮本の山車は女を乗せるのかとからかわれ、それが悔しいと涙をぽろぽろ流して訴えています。

その人の囃子方時代には山車は屋台に作り替えられていたので、山車に乗った経験はない。現役の囃子方には遠慮するにしても、自分も乗れない山車に女が乗るのは到底納得できない。おまけにそれを他町の人間に言われたからなおさらのこと。

巡る思いはいろいろあったのでしょう。
でもそれがお祭りを大事に思っての事だったなら、現状の八方ふさがりにはならなかったはず。

顧問は「女を乗せて何が悪い」「言った奴を連れてこい。俺がじっくり教えてやる。」と懇々と諭してくれましたが、結局話はかみ合わず、最後には後見もあきらめて一礼をして去っていきました。

この後町内では女の囃子方が山車に乗るのは公認され、瀕死だった祭りも何とか息を吹き返しました。

女子供を安心して祭りに出すことが出来ず、青年層にそっぽを向かれるような無頼を気取った祭りでは、町内からも賛同が得られません。たとえ屋台を山車に作り替えたところで、やがては滅びるしかありません。ここが大きな分かれ目だったと思います。

事態が限界まで閉塞してしまうと、静かに終末を待つか、風穴を開けて打開を図るかのどちらかです。けっして伝統を軽んじたわけではありません。

あれは先行きに希望を見いだすための大きな決断でした。

昭和54年露天商の出ない祭り

山車復元前の屋台は、囃子方を乗せても下に5-6人居れば押して歩けるほどの軽量でした。
暴力団抗争で露店が出なかった54年には西門の石段を下り、楼門前の馬場で記念撮影までしています。
でも山車ともなるとそうは行きません。区を挙げての実施体制への移行がどうしても必要でしたが、体制がやっと整ったのはこの数年後でした。

山車に女性を乗せたのは間違いではなかったと自負していますが、今現在、男の囃子方がなかなか残らないのが最大の悩みです。

今では女子対女子で競り合いが行われることも多くなりましたが、20年前のあの頃には考えられなかったことです。


空洞化する旧市街の宿命で、あれからも少子化は進行し世帯数も祭りを始めた頃より2/3ほどに減っていますが、祭りは何とか続けています。どん底の時代を乗り越えたのだから、現状はまだマシな方。

若い者達の健闘を祈ります。

2018/6/11

==参考リンク==

富士宮まつり 富士宮まつり公式サイト

富士宮囃子と秋祭り 富士宮囃子保存会による資料庫

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