遠音 6.再起
再起
私は家内が亡くなってから、なかなか立ち直れないで居る。店は一月閉めたままで、再開のめどは立たない。思い出の場所をさ迷いながら、心の中で奈津子に話しかける。あいつならこんな返事を返すだろうなどと思いながら、それを繰り返している。一日東京をさまよい歩いたものの、癒されるどころか寂しさが募るばかりだ。翌日なかば後悔しながら帰途についた。
兆し
身延線下り電車も富士では満席だったものが、富士宮を過ぎるとガラ空きとなった。西富士宮で降りずに乗り越したのは、もたれて眠る若い女性に亡き妻の面影を見たからだ。声をかけて降りればいい。それだけのことだがそれでは惜しい気がした。「そうだな。下部まで言ってみるか。」所帯を持った時、二人で初めて旅行したのが下部だった。日帰りでどこかに出かける事はあっても旅行の思い出は他にはなく、唯一の思い出の地だ。
「すみません。次で降りますので。」
声をかけると娘さんはようやく目を覚ましたが、眠っていた事に気付くと頬を赤らめた。
「あ、次は何処でしょうか?」
「下部です。」
「よかった。乗り過ごす所だったわ。」
駅に降り立ったのは数名、それぞれ宿の迎えに導かれて行った。乗り越し料金を精算し、温泉街を川に沿って歩いてみる。多少改築された宿も見えるが、ひなびた雰囲気は昔と変わらない。足を止めたのは古びた旅館前。名前までは憶えていなかったが、昔泊まったのはたしかにこの宿だ。ここに泊まる。夕食まで時間があったので浴衣掛けで付近を散策した。
宿に戻ると、ロビーのソファーに腰掛け、ぼんやりと暮れゆく外を眺めていた。
「電車では済みませんでした」
振り返るとあの娘が立っている。
「あ、いやいや気にせずに」
娘は軽く会釈して隣のソファーに腰を下ろした。
「友達と来るつもりだったんですけど、ドタキャンされちゃって」
「彼氏ですかな?」
「友情より彼氏の方が大事だって」
「若い方ならそれもしょうがないかな。
そうそう、あてて見せましょうか?」
「え、何を?」
「傷心旅行と見た」
「なんで判るの?」
「若い時いろんな占いに凝ったものだが、極意は直感だと悟ったわけ」
「直感なの?」
「易にも凝ったけれど、卦を立てているうちに出る卦が先に判ってしまうようになった。
で、この卦は誰が与えているのかって考えた時、自分自身の潜在意識だって思い至った。
それで考えたんだ。
精神的にも未熟で人生経験も乏しいまま占いを続けても、的確な助言など出来ないのでははないかってね。それで占いは封印した」
「それって若いときのことでしょ。今だったら的確なアドバイスも与えられるんじゃない?」
「そうかも知れない」
「私を占ってくれない?」
「占うまでもないよ。あなたの持つ明るさは、もうそんなものは乗り越えている。これからどの道を選ぶかはあなた次第だ」
「ふうーん」
今度はしげしげと私を見て、
「おじさんも傷心旅行ね」
「お、」
「図星ね」
「あんたの直感も大したもんだ」
「でも、もう大丈夫って顔に書いてあるわ」
話している内にがたがたに緩んでいたネジが締まった。どうやら店を再開できるかな。
再開したスナックには、待ちかねた馴染みの客が押し寄せた。と言っても数は知れている。私一人で丁度良いくらいだ。四方山話の中で、触れないつもりでもついつい亡くなったかみさんの話になる事がある。客も気がつくと話題をそらせていたけれど、笑って話せるようになるにははまだ時間が必要で、ようやく気兼ねなく話が出来るようになったのはもう一月ほど後のことだった。
回想
遠慮がちなてっちゃんに言った。
「いちいち気にしなくてもいいさ、もう大丈夫だ。」
かみさんとてっちゃんも幼なじみ。思い出話にはいやでもかみさんが顔を出してしまうから、これでは話の種が無い。
「そうか」
笑いながらてっちゃんが話し出した。
「おまえが血相変えて俺を追いかけたこと、憶えてるか?」
「おまえが法事で帰ったときだったな」
「あの時のおまえはなんだか恐ろしかったぞ」
「そうかもな」
「鬼みたいな顔をして追いかけてくるから、こっちも必死で逃げ回った」
「なっちゃんに会ってくれーってね」
「だから逃げ回りながら、なっちゃんちに行ったんだ」
「やっぱり、行ったんだ」
「すぐおまえが来たけど、隠れてた」
「いないと思って、また飛び出したんだ」
「その後なっちゃんと話したんだ
おまえがなっちゃんと話せって追いかけ回してるって」
てっちゃんが母親の七回忌の法事で久しぶりに帰省してみると、笛の師匠だった親父も何年か前に亡くなっていた。墓に参った時お袋に会って笛を習いに訪れていた頃の話になり、てっちゃんが良い笛吹きになるって楽しみにしていたと告げた。
「申し訳なさに墓前に深々と頭を下げたよ。
あんな大喧嘩にさえならなければ、憧れつづけた笛吹きになっていて、ふるさとを離れることもなかったろうに。」
「その後だ、お袋から話を聞いて必死で追いかけたのは。」
「逃げ回ったあげくに飛び込んだなっちゃんの店は、お袋さんは買い出しで留守だったが、久しぶりに会ったなっちゃんはずいぶん綺麗になっていて、話を聞くと笑って言った。
『何勘違いしてるんだろうね。
てっちゃんは確かに小さい時からの憧れだけど、所帯を持ちたいと思ってるのはまーちゃんなのに。』
正直うらやましかった。
『あいつに伝えようか?』
と言ったら
『大丈夫、自分で言うわ』
と言うから
『次に来る時には子供が居るかな』
と聞いたら
『そうね』
と答えた。
そのまま電車に乗ったんだ」
「その夜の事だ。のれんを仕舞ってからあいつは切り出したよ。
『てっちゃんに会ったよ。久しぶりに話したけど変わってなかった。でも憧れは所詮憧れね。息が詰まるもの。所帯を持つのなら、やっぱり空気みたいな人が良い』
そう言うと、前に座り居住まいを正して話し出した。
『いつもいつも守ってくれてありがとう。本当に感謝しています。こんな私で良かったら、あたしを、』
『ま、待て!俺に言わせてくれ』
かしこまって、声を絞り出した。
『嫁になってくれ』」
「何年待たせたことになる?」
てっちゃんが訊いた。
「あの騒ぎの後、おまえのお袋さんが亡くなっておまえが東京に出て行っただろう。
多分そこからだから、七回忌でまるまる六年か。」
「六年もか、もったいない。」
六年早かったら子供だって授かったかも知れないな。
結局子供をあきらめ、実家を次いだ弟の次男坊に後を託す事にした。養子のような物だが同居でも別居でもなく、あるいはどちらでもあるようなゆるい関係。家が二つあるような物で気ままに行き来をし、どちらにも要領よく甘えている。
「でも、追いかけっこも無駄じゃなかったんだ。」
横から香代が言った。
下部で知り合った娘、名は香代という。あの後、浅間大社に参詣すると言って富士宮を歩き回り、気に入ったからとアルバイトを見つけてきた。
「で、住むとこないんだけど、居候させてくれない?」
「おいおい、仮にも男の一人暮らしに居候はないだろう」
しかし、奈津子の実家はてっちゃんに貸してある。
知り合いにもアパートや下宿屋は居ない。
幸い店は鍵もかかる。物置に使っていた店奥の四畳半をとりあえず空けた。
自分の住まいは一階だから、まあ間違いも起こるまい。
「給料貰ったら、ちゃんとした所探すんだぞ。」
それから共同生活が始まった。居候だから家賃もない。代わりに少しぐらいはと言う事で、仕事から帰ると洗い物と片づけを手伝うようになる。するとなんだか若い客が増えてきた。
出しゃばるわけでは無く奥にいるのだが、
「いらっしゃいませ」
の声が小気味よい。
予感
ある日の事、甥っ子のけん坊が血相変えてやって来た。
「おじさんどういうつもりなんだい!」
連れあいを亡くして一月半、まだ喪も明けないうちに若い娘を連れ込んだともっぱらの噂らしい。人は口さがない者、言わせておけばいい。しかし、そんなに伯父が信用できないか?
「馬鹿もん。俺がそんな事すると思うか」
一喝した。
「一応紹介しておく。香代ちゃんだ。」
仕事から帰り、窓際で猫を撫でていた娘が立ち上がって会釈をした。
「今は居候ですが、アパートが見つかったら引っ越します。」
けん坊は不意をつかれ、赤面しながら言った。
「いえいえ、あ、焦らなくていいですよ。どうぞごゆっくり」
あたふたと逃げるように去った。
その晩からけん坊は店に皆勤賞。なんだか昔見たような光景だ。
香代のおかげで新規の若い客が増え、一人ではどうにも手が回らなくなった。聞けば香代は以前喫茶店で働いていたというので、正式に働いて貰う事になった。
店を閉めて洗い物をするときには、少し話をする。生まれは関東の田舎町、母が早くに他界し父も数年前に亡くなった。身よりは兄が一人居て、農業を継いでいる。兄を尻に敷く兄嫁とは折り合いが悪く、実家にも帰る事はほとんどない。しっかりしているのは、その所為か。
「ホットケーキやオムレツは得意なんですよ。」
店のメニューも増えた。一方けん坊は酔客から香代をガードしているようにも見える。なっちゃんに虫がつかぬよう、毎晩通っていた自分の姿が重なる。焦るなよ。焦って追いかけると逃げられるぞ。内心そう思いながら、若い日の自分を見る想いで、てっちゃんと二人で見守る事にした。
一人じゃない
店の客で他所の町内で祭りをやっていた人が話した事
かつて青年長だった時にこんな夢を見た。
祭り初日の朝の事だ、遠くでは気の早い町内が、引き回しの始まる前からお囃子を始めている。会所の前にさしかかると、なんだか様子がおかしい。一切の飾り付けは無く、山車さえも無い。集まってきた人たちが騒ぎ始める。
「準備はどうなっているんだ」
「青年は何をやっている」
「青年長は誰だ」
愕然とする。青年長は自分だ。
いまさらどうしようも無い状況に、頭を抱えてしゃがみ込み、ごめんなさい、ごめんなさいと叫び続けた。
気付くとまだ明けやらぬ暗い部屋。冷や汗をびっしょりとかいている。カレンダーで九月である事を確かめ、まだ充分日があるので胸をなで下ろした。
「追い詰められてたんだろうね、きっと」
我が町内も同じだ。当日になれば長い経験のある後見方が参加し、引き回しは滞りなく行われる。しかし、準備や片付けは現役の仕事だ。数少ない現役青年だけでは、役割を分担出来る態勢は取れない。
この人も覚悟を決め、家業を犠牲にして準備に当たったそうだ。
どちらもずいぶん悲惨な状況に見えるけれど、先輩全部が黙って見ていた訳ではない。心ある人はいるもので、影ながら障害となるものを取り除いてくれていたのだ。
てっちゃんが悪たれをやっつけた後も、実はちゃんとフォローしていた。
後を追い飲み屋に誘って、酒を飲みながら遅くまで話した。
「どう思った? 祭りが出来なかったとき」
「そりゃぁ、つまらなかったさ。」
「俺もそうさ、憧れの笛吹きにやっとなれたと思ったら、あの騒ぎで日の目を見ないまま終わっちまった」
「ほんとに、悪かったな」
「だけど、一番辛かったのは師匠だろう?」
「ああ」
「祭りを再開するために、子供達に囃子を教える事から始め、何年も掛けてやっと再開したんだからな」
酒を注ぐ。
「この祭りに対して、俺に出来る事って何かと考えたんだ」
「なんでだ?」
「師匠が何のために、只で囃子を教えてくれたと思う? 月謝を取る訳でもなく」
一息置いて続けた。
「祭りを将来に伝え、残して行くためだと思うんだ。だから俺は、師匠に教わった笛を若い者に伝えるし、中断のきっかけになった争いの芽を摘もうと思ってる」
しばし沈黙
「対抗意識が高じ、むきになってしまったんだ。舐められたくないと思った。いまさら取り返しはつかないが」
「なぁ、罪滅ぼしに出来る事だってあるんだぜ」
解説
思い出や記憶が強いと、囚われて抜けだせない事がある。
手がかりが無い訳では無いが、それを見いだす事が出来ない。
それが、ほんの些細なふとした事、周囲からの助言で、踏み出すきっかけが掴めたりするものだ。
ようやく、地平が白み始めた。
新たな物語をそっと見守る。