祭にっぽん

遠音 8.「へんぽらい」

「へんぽらい」

祭りも終わり落ち着いた頃、かみさんに先立たれた私を気遣って、常連や同級生などが定期的に集う事になった。店の休みの日に、それぞれ飲み物やつまみを持ち寄って昔話に花を咲かせるのだ。

始まりは、下戸のたかちゃんがこうちゃんに声をかけた事。

「貰ったのがどうやら良い酒みたいなんだが、家に置いとくと煮物に使われちまう。声かけて集まり、皆で一杯やらないか。」

それでうちの休みの日に、店に集まる事になった。最初は思い出話、子供時代のいたずらや冒険、

まあちゃんは言う。
「東海道を外れているので新聞社の支局がなく、富士宮市がニュースになりにくい。そんな事もあって、全国的にはまだまだ祭りが知られていない。だから個人で、発信して行く。祭りの記録記憶の収集調査サイト、ブログ、SNSで発信して行く。」

話が盛り上がると遅くなる事が多い。気の利かない男どもにこうちゃんのかみさんが言った。

「あんたらが長居をしたら、香代ちゃんが迷惑するだろ。ちょっとは考えな。」

確かに店奥の小部屋が香代の部屋だ。早い時間には手伝ってくれるけれど、飲み物を控えるのはそんな訳もあったのか。

「だれか空いてる部屋無いか?」

冗談めいて誰かが言う。

「あり得ない事だけど、こいつが間違い起こすかも知れないし。」

「それは無い!」

皆で否定。

よく判ってる。

少し古いが、奈津子の実家を修繕してそちらに移って貰った。

香代の代わりに健太が顔を出すようになる。最初は嫌々だったが、だんだん興味を示し、自分でも記録を付けるようになった。

時々香代が顔を出すが、年寄りの話が面白いと言って健太の隣で笑いながら聞いている。

遅くなるときには健太に送らせるのだが、すぐに帰ってきてしまうのがちょっと気に入らない。

たけちゃんが気を利かせて香代に映画の只券を持ってきた。

「期限が近いから、来週の休みにでも誰か誘って行ってきたら。」

次週には期待して皆が集まるも、健太は声がかからなかったものか、年寄りの昔話を聞いている。

「香代ちゃんにも、好みはあるか。」

一同ちょっとがっかり。

 

鉾立石損壊

かなり昔の事だが、町内に住む神主さんが区長に怒鳴り込んだ話を聞いた。

「鉾立石が割れたのはお宅の青年が持ち上げて落としたからだ。これを元に戻せ。」

昔からの町内の青年の柄の悪さは、身を以て経験している。
区長は若い時笛吹きだったけれど、笛を無視してのやりたい放題に、何度堪忍袋の緒が切れた事か。代は変わってもうちの悪たれどもなら確かにやりそうな事だ、とは言え決めつけての無理難題を突きつけられるにはへんぽらいの血が騒ぎ、黙っては居られなかった。

「割れたのを元に戻す事は無理ってもの。出来るなら貴方がやって下さい。」

と言って火に油を注ぎ、神主さんに激昂された。
結局、割れた鉾立石は鉄棒を芯に通してセメントで張り合わされた。

「へんぽらいだねぇ、だけど我々だって相当な変わり者だぜ。」

「それぞれが富士宮の事や富士宮の祭りの事を発信するときには、へんぽらいを名乗るってのはどうだ?」

全員の賛同を得て、決定。

写真のデータ化と整理保存は弟に頼んだ。

サイト掲載は、富士宮市でインターネットの草分けと言われるまあちゃん

ブログは一つのアカウントを使い、持ち回りで書く。

フェイスブック、ツイッターなどもだ。

まあちゃんは祭り紹介サイトを立ち上げて富士宮の祭りを、目立つページで大きく紹介。

 

 

祭りの歴史調べ

写真があっても何も書いてない場合には判断がつかない。何の写真なのか、どのような状況で撮られたのか。

十字街を、宮参りの一行が曲がって行くところが撮られていた。二三見知った顔はあるものの、精確な撮影年は判らない。よく見たら画面内の映画看板に昭和三十二年文部省推薦映画と書いてある。この年の祭りの事が、翌年に分離独立した二の宮区の区誌に書かれていた。当番区の一つとして盛大に行った祭りだったそうだ。昭和十七年に市制施行し、それから十五年目の大祭りなので当番町の宮参りの隊列がわざわざ十字街を通ったと言う事らしい。隊列の中に数名の芸者衆が三味線で参加している。

この様に新聞記事や区誌、写真などから関連事項を拾い出すのは、幸い町内にある図書館に資料があって都合が良かった。
改めて我が区誌を読むと、その編集の大変さを実感する。まめに聞き歩かなければ出来ない仕事だ。編集委員長の元新聞記者としての経験が結実したもの。この記録を基にして、孫子の代に、もっと完成度の高い区誌を作って欲しいという編集委員長の言葉が重い。

「神社に記録があるんじゃない?」

確かにそう思う。
神社に問い合わせると、神事に関する記録はあるものの、氏子町内が行う”つけ祭り”に関するものは残っていないとの事。
一方町方の記録では、江戸時代の造り酒屋主人の日記「袖日記」に「ダシ」とか「家臺」などの記述が残っていて、それがどうやら一番古いものらしい。

各町内ごとの伝承を拾うには、それぞれの町内に伝手を作る事。新たに得られた資料や伝承をを発信する事で、祭りの歴史に対する興味を高め、また新しい事実を発掘する。新たな提供者があれば、定例会に来て貰い詳しく話を聞く。

外聞をはばかるような話もあってそれは記録には載せられないけれど、しっかり保存はしてある。

たとえば、鉾立石を割った犯人は他の町内の青年だったと判明したけれど、濡れ衣だった事は書いても、やった町名は表に出さないと言った具合。

もっちゃんみたいに、なんでも背負い込んでしまっていた奴はこう言った。

「準備に落ちが無いようにと、全部目を配ってやっていたつもりだったけど、役を降りフリーになって祭りをみたら、あちこち足りない事ばかりだった。祭りの事は全部判っているつもりだったけれど、いつも山車と一緒なら、会所でどんな苦労があるのかまでは判らない。それを黙ってカバーしてくれていたのが、ある先輩だった。手の足りないところを見つけると、それとなく補助にまわり。経験者ゆえの見事な手際で、うまく裁いてくれている。先輩風を吹かす事もなくね。
それが判ってからは、今度はその役回りを心がけているよ。」

 

「まあちゃんがホームページ始めたのは、かなり早かったんじゃ無いか?」

「ああ、当時富士宮市で検索しても、三つしか見つからなかったから、早いほうだろうね。」

熱心に囃子を覚え将来祭りを背負ってくれると思っていた子供達が、就学で地元を離れ就職で異郷に根付いてしまう。それが何より残念で、少しでも里心を起こす事が出来たらと始めた事だった。

「話を記録したのはいつ頃からだい?」

酔っ払いの思い出話や武勇伝は、面白可笑しく脚色されて、聞く度に内容が違う。それらをその都度書き留めて、本筋を探ろうと思ったから。

女子囃子方山車に乗る

まあちゃんもかなり苦労したようだ。
やめたいと思った事は何度もあり、犠牲的精神でなんとか続けては居るけれど、楽しくなければ続けられない。押しつけられ、やらされている祭りと感じたら早晩行き詰まる。青年長を下りたら、全て手を引こうと思っていたほどだったが、思いとどまったのは祭りの着物を着せて貰った小さな女の子が本当に嬉しそうに踊りの所作を真似て見せたときだった。
祭りは本来楽しいもの。子供達の楽しそうな顔を見れば、それがわかる。この笑顔のためなら頑張れる。
でも現役青年は底をつき、募集に町内を廻れば居留守を使われる有様。あの頃はどん詰まりだったね。だから勝負したんだ山車に女子を乗せたのも、もめるのを覚悟でやったこと。
昔からの祭りを知る大老に許可を得た時、念を押された。

「本当にやるのか?」

「はい」

大老も不本意ではあるけれど、決意を見て取ったのだろう。了承してくれた。そして決行。直来を終えお開きとなり、無事にこのまま終わるかと思われた祭りだが、最後の最後で梃子棒が振り回される結果に。

他所の町内に馬鹿にされたのが悔しいと涙を流して訴える後見に大老は、

「それなら言った奴を連れてこい。
女を乗せて悪い訳は無い。
俺がそいつを説き伏せる」

その時俺が思ったのは、地元の祭りを馬鹿にされたからというのは違うだろうと言う事。本当に地元の祭りを大事にしてきたのなら、青年の募集に歩けば全て断られたり、踊りで参加する女子が出なくなるような事も無かっただろうさ。
これは、祭りの楽しみを取り戻し、祭りを消滅させないための大きな賭けだったんだ。

翌年から、女子が山車に乗る事に反対は無くなった。

 


解説

祭りの記憶は語り伝えられても、写真以外はなかなか物として残らない。
面白可笑しく脚色された武勇伝は尾ひれがついて大きくなりがちだ。
区誌などに祭りの記録は多少残っていても、大まかすぎる。
断片的なピースを持ち寄って本筋を探る作業は、案外楽しい物だった。

ある者が不満を述べる。
「わが町は何でニュースに載りにくいんだ?」
新聞社の支局が街道筋にはあるが、富士宮には無いからだとの話を聞いた。
”インターネットは貧者の放送局”という言葉にいたく感動し、私費を投じて郷土を発信することを始めたまあちゃんは、「人から見たら”へんぽらい(変わり者)”だ」と笑う。
ブログや動画それにSNSで繰り返し発信していると、負けじといくつかの町内が自町内の祭りを発信するようにもなってきた。

嬉々として祭りを楽しむ者が、祭り好きな子供を育てる。
同じようにへんぽらいの蒔いた種が、少しずつだが広がり育っている。

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